抽象的な作品?

加藤 今日、作品を持って来ました。観てもらえたら、言ってることが伝わるかもしれない。

 2011年から2012年くらいにかけて、美術館での巡回展(日本各地で開催された「加藤久仁生展」)で上映するために、1分のアニメーションをちょこちょこつくってて。この作品は、各アニメーションをまとめた詩集みたいな感じですかね。全体のタイトルは《情景》です。

−《情景》もくじ−

 休日

 雪

 ポタージュ

 朝

 あいつ

 昼寝

 カーテンコール

作品鑑賞中。

ボールを蹴る子供たち、雪につけられる足跡、
食卓につく家族など、さまざまな「情景」が描かれている。
《情景》 ©ROBOT
《情景》 ©ROBOT
《情景》 ©ROBOT
《情景》 ©ROBOT
《情景》 ©ROBOT
《情景》 ©ROBOT
《情景》 ©ROBOT

作品鑑賞終了後

加藤 ちょっと抽象的な感じで……、いきなり、あれでした……。

長田 いやーすごい。

加藤 まあわりと、スケッチ的なアニメーションって感じで。

長田 これ本当にお1人で?

加藤 作画は自分で。撮影と編集はちょっと手伝ってもらいましたけど。

長田 各作品、全部タッチが違いますよね。

加藤 そうですね。《つみきのいえ》まで、鉛筆とデジタル着彩みたいなもので、ずっとつくってたんですけど、もっといろいろな画材も、1回試したいなと思って。今までの方法論を変えてつくりました。

長田 アクリルっぽいタッチの作品も、全部アナログでやったんですか?

加藤 そうです、そうです。最後の《カーテンコール》って作品は、黒い紙に白やグレーのアクリル絵の具で描いて。あとは水彩だったりとか。《あいつ》っていう、黄色い生き物が出てくる作品は、下絵なしで筆ペンで作画しています。そういうのも、いろいろ試しながらつくったって感じですね。

 抽象的な感じなんですけど……。

長田 「抽象的」って、一般的によく使われる言葉ですよね。「抽象的ですよね」「アートですよね」って。

 加藤さん、「抽象的」って仰りましたけど、僕はなんとなく、もうその時代が終わろうとしている気がするんですよ。それはね、僕にとっては「排他する」言葉のように聞こえるんです。

 「抽象的ね」って言うことで、「あぁそっち側ね」って判定する。それで自分がちょっと卑下しちゃって、「僕はそうです」っていう感じで言っちゃうこともある。でも、それに何の意味があるんだって思ってたんですよ。ずっと。

 僕、例えば自分の絵本の『風のよりどころ』が「抽象的ですね」って言われたりする。

『風のよりどころ』(国書刊行会、2017年)
『風のよりどころ』本文


長田 「僕、抽象的なつもりはないんだけどなぁ」って言ったら、「え? そうじゃないですか!?」って言い返されて。

加藤 はあ。

長田 「そうじゃないですか!?」って、どういうことだ? と自分なりに考察したんです。でもなんだかよくわかんない。

 要はこの感覚こそが「抽象的」なんですよね。僕の感覚で言えば、この「わかんない」感じ。

加藤 あぁ、なるほど、なるほど。

 いや、僕もついつい防衛として「抽象的ですけど」って言っちゃってたんですね。今、わかりましたね。

長田 こういう言葉って、個人の考える、あるいは個人が掘り下げる、感じるという要素を奪ってる気がします。なんというか「安全」のようなところに、「危険な形で持っていってる」とでも言うのかなぁ。だから実は安全じゃない。

加藤 そうそうそう。そうなんですよ。そう。

長田 にしても、この《情景》、加藤さんの「ちゃった」感が半端ないっすね。

加藤 描いちゃった感(笑)

長田 描いちゃった感すごいですね。

 オムニバスの作品として、いろんな感覚があって、それぞれの色があってっていう……。言ってしまえば、ある意味、音楽のアルバムに近いですよね。

加藤 あぁ、そうですね。そういう感じです。

長田 良いレコードを聴いてる感じでしたよ、本当に。

加藤 ありがとうございます。

 今、考えている作品は、これの延長上ではあると思うんですけど、もっと長い尺になりそうで……。

長田 設定としては、ちょっとしたイメージくらいしかないですか?

加藤 そうそう、そうなんです。

長田 あとは流れに身を任せて。

加藤 そうですね。次も描きながら、展開していけたらなって感じなんですね。

長田 すごいな……。もう、これ観て、僕がアニメーションやるわけないでしょう!

観る人に刺激を与える

長田 この《情景》を観ていて、なんか呼び覚まされる感覚がありますよね。例えば、昔どっかで嗅いだ匂いの感覚とかが蘇って、それが広がっていくような。

加藤 それ、本当にやりたいことの感想をいただいた感じです。

 短編のアニメーションって、その作品内で完結しちゃうものがすごく多いんですよ。絵的には面白いけど、現実の自分に立ち返ってこないっていうか。

 でも本当は、そこに立ち返らないといけない。ただ作品観て終わるっていうんじゃ、やっぱりダメだなって思いが、すごく強くあります。何かしら、観ている人に刺激を与えるっていうか……。そういうことが本当にやりたいんですよね。

 それはなんかこう、「ああ、ストーリーが面白かった」っていうことの面白さとは、また別のものとして、できるんじゃないかなと思うんです。

長田 観る側としては、脳のロジック的なことが外される気がするんですよ。

 《カーテンコール》って作品でいえば、とりあえずまず《カーテンコール》って題字が出される。

《カーテンコール》の題字 ©ROBOT

長田 それでまず1回、その言葉を意識するんですよ。「カーテンコール、カーテンコール」って意識して作品に入る。でも実際のアニメーションでは、その言葉に寄り添うどころか、ワァーっていろんな情景が出てくる。

《カーテンコール》の一場面  ©ROBOT

長田 でもこの作品は《カーテンコール》なんだろうって。そのことを考えると、ちょっと読み解こうっていう後作業ができる。そのための作業は、過去に体験した自分の感覚を呼び覚ます気配みたいなものに繋がる。

 あと、最後から2番目くらいの、蝶がとんでいく作品。あのなかに出てくる月齢の子供が目をこするとき、こう、大人みたいにちょっと「ゴシゴシ」するんじゃなくて、執拗に「ゴシゴシゴシゴシ……」って6回くらいするじゃないですか。あれとかも完璧なんですよ! 「あっすごいな、子供じゃん!」って思って。大人と子供をこれでもかと描き分けている。

 その「動き」っていうのは、「技」なんだなって思います。加藤さん自身はそこら辺をもう、完全にキャッチしている。それをファっと観せられる。みんながわかるよねっていう感覚を捉えている。最初仰ってた、ストーリーから離れていくっていうことです。

 絵本っていうのも、わりと短く「大技」を掛けられるけど、加藤さんのアニメーションみたいに、ああいう言葉がない状態で、音楽でもっていく、あるいは展開するところの気分や、あのリズムがないんですよ。

 だから僕もあのリズム、欲しいなーって思います。1分っていう尺と、各作品の、あの題字と映像を織り交ぜるリズム。さっき加藤さんが仰っていたことが、作品にグウっと凝縮されている感じがします。

 やっぱり、「実際の作品を観てくれ」っていうところが、最終的にあるんだろうなと思いました。びっくりしましたね。「本当だー!」みたいな。

加藤 描いちゃったの。言葉で説明できないものだから描くんですが……。

長田 《情景》は、「順撮り」っていうか、順々に描いたんですか?

加藤 そうですね。ほとんど。でもいろいろ。

 作品は全部で7本あるんですけど、それぞれつくり方を変えてて、描きながら展開を考えてつくったのもあるし、ある程度、場面を最初に決めて描くっていうのも、もちろんあったんです。

 でも基本的に、作画は順番通りに芝居をつくっていくっていう感じがあって。場面を決めてても、ついつい動かしたくなるときは、絶対につくるっていう。

長田 「ついつい」のオンパレードでしたね。

加藤 ついつい描いちゃったっていう。


全員、4番バッター

長田 これは参ったな、本当に。

 野球に例えていえば、1分の作品自体は、1人のバッターだと思うんですよ。僕からすると、《情景》は全員「4番バッター」だと思ったんですよ。

 僕の絵本は、例えば「アカルイセカイ」三部作でいえば、「9番バッター」の見開きシーンっていっぱいいるんですよ。4番バッターを引き立たせるっていう意味で、5、6見開き、9番バッターが存在するっていつも思ってて。4番バッターばっかりあると、絵本の性質的にくどくなっちゃう。つまりとっちらかって、4番でもなんでも、なくなっちゃうっていうんで。

 でも、今日《情景》を観て、「あ、できるんだ!」って思いました。それは僕、ずっと抱えてたことだから、悔しいんですね。加藤さんにやられちゃって。

加藤 でも、さきほど「アルバムみたい」って仰ってましたよね。

 基本的には、1分ごとの短編をまとめるとき、その楽しみ方もあると思うんですよ。「最初の曲はこれでいって、2曲目で落ち着かせて、3曲目、4曲目でドカン」みたいな。その面白さも絶対あって。

 ただ、《情景》は、ハナからそういうつくりじゃないので、それこそ各作品、それぞれ4番なのかどうか、打順も考えてなかったんでアレなんですけど。

 これは「スケッチブックを見た」みたいな感じにちょっと近いかなと……。

 まあその、打順を考えたりする面白さは、それはそれで別にあると思うんですよ。

長田 僕は単純に、受け手として、全部4番バッターに感じちゃったんですよね(笑)

加藤 そうですか(笑)

長田 全員スター選手みたいな感じになっちゃってたし、1分の妙が面白かったですね。それぞれ、時間の感じ方も違ってたし。

 あと、黄色い生き物を、男の子がバットで殴る作品。あいつがね、なんの疑いもなくフルスイングしてるじゃないですか。ああいうタッチであれをやるっていうところもまたね、憎いなぁと思って。

《あいつ》 黄色い生き物に襲いかかろうとする少年 ©ROBOT

長田 またね、殴る前にバットを持ちながら、黄色いのを探す場面があるじゃないですか。

加藤 ええ(笑)

長田 折れてましたね〜、彼の体! しっかりと! 

《あいつ》 折れている少年の体 ©ROBOT

長田 ああいうデフォルメがね、いいんですよ。アニメって。

加藤 まあ、そうですよね。

長田 要は、ちょっと滑稽っていうか。ちょっとリアリティから外れるっていうところ。

 あれなんですよ、絵とかアニメーションの可能性の強さって。あえて、背景がない。「いける、いける」みたいな。「リアリティ? いらないよ」みたいなところ。あぁこれすごいなと思って。

 加藤さん、さっき「人物に寄りたい」って仰ったけど、全然寄ってないなと思って(笑)

加藤 ああ、そうですね(笑)

長田 それから、緩やかな世界が描かれてるなっていうタイプの作品も、いきなり「プッ!」と画面が切られて終わっちゃう。その面白さもあったんですよ。

 緩やかなやつって短編映画とかでもいっぱいあって、情景がシューっと消えていって終わる、みたいなものがありますけど、加藤さんの「プッ!」て画面を切って終わるタイプは、「すごい切り方をするな」って思いました。

 その切り方は、たぶん物理的な本だとできないんですよね。本でいうところの、切っちゃうっていう編集的なものは、落丁(ページが抜け落ちている状態)と間違えられそう。

 物体としての「本」的な作業になっちゃうから。そこが難しい。

加藤 ええ。

長田 要は、ああいう切り方に「足りてない」って思うのかどうか。さっきの「プッ!」が、「これ切れてますよ、この映画。あと15分、どこにいったんですか?」ってなっちゃうのか。

 妙な言い方ですけど、映画は90〜120分本編があって、エンドロールが流れて、バックに良い音楽が流れて……みたいな定石で、観る側が安心するということ。そう、「安心安全」みたいなもののなかに、今のエンターテインメントの主軸があるんじゃないかって、ちょっと思うんです。

 一度、映画や、小説や絵本みたいな、いろんな作品が構築される。良い悪いとかは別にして、その間に、それぞれの人たちが、それぞれの実験をしているんですけど、その結果、どこかエンターテインメントの形としては、定石ができてるっていう。その定石が観る人にとっての「安心安全」になっているから、いきなり「プッ!」と切って終わったら、不安になる人もいるかもしれない。

 だからこの1分の短編集は、びっくりしましたもん、本当に。今、頭、クラ〜となってる状態なんですよ。

加藤 ははは。


わかる/わからない

加藤 でもね、長田さんはやっぱりつくる人だし、普段、やっぱり考えているから……、それこそさっきの「安心安全」じゃないところで、つくることを考えてるから、1回観ただけで気づいてくれるところがたくさんありました。

 これ、美術館の巡回展の、おまけっていうか、そこでちょっと上映するためにつくったんです。その巡回展が地元の鹿児島に行ったときにも上映したんですよ。

 地元の田舎の、古くからの友達、10代をずっと一緒に過ごしてきた友達も観てくれて。そいつはアニメーションとかをつくってる人じゃ、全然なくて。美術館で、繰り返し、ずうっと何回も観たんですって。

 でも「全然わかんなかった」って。「何回も繰り返し観たけど……、全然わからんかった」って。

 それこそ「安全」っていう土台がない人が観ると、やっぱりちょっと伝わらな過ぎるかなってふうには思ったんですよね。

 逆にある程度、つくる人だったり、普段なんかこう「常識」とか「普通」とか、そこからちょっとズレたことを意識している人だと、やっぱり目線が違う。日常から離れた見方だったり、考え方をしてるっていうのが、アニメーションを観るときの、とっかかりになるんです。

 でもそれがまったくない人には、こういう感じだとちょっと「不親切」なのかなって、そのときは思ったりもしたんです。だから、いろんなつくり方があるんですけど、そういう地元の友達に、どうこれを伝えられるか……。

 まあ「ちゃった」なんで、「わかんない」って言われることは、しょうがないってことなんだけど、でも「しょうがないだけじゃ、ちょっと悔しいよな」って思いもあって。

長田 わかんないって言われたら、こっちとしては「そうですか」としか言いようがないですよね。感想としては。

加藤 うん。「ちゃった」んだけど、なんか……「わかってほしい」じゃないけど、なんか感じてほしい。

 それこそ、言葉にならなくても良いし、わかんなくても良いんだけど、なんかこう、アニメーションから返ってくる感じとか、刺激っていうか、なんかを生み出したいっていうのはあるんです。

長田 たしかに、あれは「わかる」っていう世界じゃないのかもしれないですねぇ。

加藤 ま、そうかもしれない。

長田 「わかんない」っていうのは、「わかる/わからない」ってところを起点に言ってるから、それはまあ、難しいんであって。

加藤 そうなんですよね。

長田 もちろん加藤さんもそうですけど、「わかる/わからない」でつくってるわけじゃないから。自然発生的にできたものを「わからない」と言われたら、ちょっと……。

加藤 そうですね。

長田 だからさっき言った「安全」っていうのは、わかりやすさ、作品づくりの定石、ストーリー性重視のことなので、「安全なものに、今の時代のエンターテインメントが巻き込まれている」って思ったんですよ。それに巻き込まれるがゆえに、企画の段階でも、エンターテインメントをつくる側が、不安になっちゃうっていうか、「わからない」ってものを気にしてしまう。つまり「面白くない」っていう判断じゃなくなって、「わからないと観られないんじゃないか」って判断。

 で、逆に言うと、そういうことを求めてない側からすると、わからせようとして作品内で何か解説されてしまうと、それはちょっと無粋だなって思う人もいるけど、こっちは無視される。「大事なのは、わからない人を助けることなんです」っていうこと。でもそれは僕にとってはまさに「わかんない」。「これやって何になるの?」って。

加藤 そうなんですよ。だから、その鹿児島の友達が、僕との友達って関係もあったかもしれないけど、何回も観たってところが、ちょっと面白いところではあるんですよね。何回も繰り返し観たってこと自体が重要というか。

長田 そうですね。

加藤 それは能動的になってるわけじゃないですか。観客として受け身ではないというか、わからせてくれっていう状態じゃなくて、わかろうとしてるっていう。そこなんですよね、大事なのは。

 結果、わからなくても全然、良くて。わからせるためにつくっているわけじゃないから。

 彼がそれを面白がってくれたら、より良いし、何か具体的にまた「つくる」方向に行ってほしいっていうか。具体的にアニメーションをつくるとかじゃなくて、日常生活の、何かこう、返ってくるものであれば良いって思います。

 受け身じゃなくて、観客を積極的にさせたいというか、積極的に考えさせられる状態をつくれるかってことなんですかね。「安全じゃないぞ」っていうところ。

長田 「安全じゃない土台づくり」について言うと、僕、短編映画っていうものが、これから長い年月がかかるのか、かからないのか、わからないですけど……。やっぱり、多くの人が求めて止まないものになる気がするんですよね。

 加藤さんがそのうねりの先頭を走ってくれると、面白くなるだろうなぁ。

(了)



番外編 釣りをするおじいさん